なぜ「イエスの御名」によって祈るべきなのでしょうか?
こんにちは、オリベット・アッセンブリーのイ・ハンナ(Lee Hannah)宣教師です。
最近、私は『ひざまずいて生きるクリスチャン』という本を読んでいます。この本の著者は自分の名前を明かさず、「無名のクリスチャン」とだけ記されています。自分を表に出そうとしないその謙遜さと、ただイエス様だけが栄光を受けられることを願う主への深い愛が感じられます。
この本を読んでいると、自然と祈りたくなります。ですから一度に全部読み切ってしまうのではなく、毎日一章ずつ大切に味わいながら読んでいます。言葉であれ文章であれ、謙遜と主への深い愛がにじみ出ている人がいます。私もそのような人になりたいと切に願っています。
1. 天国の銀行と「祈りの白紙小切手」
本の中には、私たちがなぜ 「イエスの御名によって祈るべきなのか」 を説明する、とても良いたとえ話がありました。皆さんと分かち合いたいと思います。
私たちは時々、天国が私たちの銀行であると言われます。神様は偉大な銀行家です。だからこそ「すべての良い賜物、すべての完全な贈り物は、上から、光の父から下って来る」と言われています。私たちはこの無限の宝の倉から引き出すための小切手が必要です。イエス様は祈りの中で白紙小切手を与えてくださいました。「好きなだけ書き込みなさい。何でも望むものを求めなさい。そうすれば受け取ることができる。わたしの名による小切手を差し出しなさい。そうすればあなたの望むとおりに与えよう」と語られています。これをある有名な伝道者の言葉で表してみたいと思います。
これは私が天国の銀行へ行く時、つまり祈りによって神様のもとへ行く時に起こることです。私はその銀行に何一つ預けていません。そこには私の信用もありません。ですから、自分の名前だけでは決して何も受け取ることができないでしょう。しかしイエス・キリストは天国の銀行に無限の信用を持っておられます。主は私の小切手にご自身の名前を書き、それを持って行く特権を与えてくださいました。私がそれを持って行く時、私の祈りはいくらでも支払われるのです。つまり、キリストの名によって祈るとは、私の信用ではなくキリストの信用を根拠として祈るということです。
(『ひざまずいて生きるクリスチャン』119〜120ページより)
2. 主のうちにとどまる人生と祈りの答え
私たちは本来、罪のゆえに神様の前に近づくことのできない者でした。しかしイエス様が十字架で成し遂げてくださった贖いの恵みによって、今ではすべての罪が赦され、大胆に神様の御前へ進み出ることができるようになりました。イエス様はヨハネの福音書15章7節で、祈りの原則を明確に語っておられます。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネの福音書15章7節)
私たちには大きな特権が与えられています。私たちが求めるすべてのことをかなえてくださるという約束です。しかし、この約束には重要な前提があります。それは 「私たちがイエス様のうちにとどまり、イエス様の御言葉が私たちのうちにとどまること」 です。単に自分の欲望を満たすための祈りではなく、私たちの人生が主と深く結ばれている時、祈りの答えは主の御心と一つになります。その時、驚くべき祈りの働きが始まるのです。
このような素晴らしい恵みと祈りの祝福を開いてくださったイエス様に感謝します。今日は主の御言葉のうちにとどまり、主とさらに深く出会う祝福された一日となることを願っています。
皆さんは今日、どんな祈りの小切手を主の前に差し出していますか。
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